
様々に形を変えては増え続ける示談金詐欺。その典型ともいえるのが「痴漢」をネタにした振り込め詐欺です。大学教授など、「この人が!」と驚く痴漢犯罪のニュースが多い世相をうまく利用した詐欺ともいえます。詐欺グループは、被害者の家庭事情を入念に調べた上で犯行に移ります。そして、最初に電話をかけるコンタクト役の警察官の次に、すかさず弁護士役が登場するなど、たたみかけるような巧みな話術を繰り出してきます。
リリリリリーン! リリリリリリーン!
時計を見ると、まだ十時過ぎ。番号の表示は03ではじまる一般固定電話だ。誰かしら? と思いながら、A子さんは普通に受話器を取った。
「はい」
「もしもし、渡辺さんのお宅ですね」
聞き慣れない男の声を不審に思いながらも、「…ええ、そうですが」ととりあえずA子さんは返答する。
「私、S警察署の佐藤と申しますが」
「え?」
相手は念を押すように繰り返す。
「S警察署、佐藤、です」
「……あ、はい」
警察から電話がかかってくるなど、はじめてのことだ。電話の相手はA子さんに考える隙も与えず切り出してきた。
「あのですね、ご主人のことでちょっとお電話したんですが」
「……あ、はい、うちの主人が何か?」
「実は、今朝、出勤途中の電車の中で、痴漢行為をしましてね」
「えっ? 何ですか?」
と聞き返すA子さんに、男は声を大にして言った。
「チ、カ、ンですよ。それで、今、警察で取り調べ中なんです」
A子さんはわけがわからず聞き返した。
「あの、どういうことでしょうか?」
電話の相手はA子さんをなだめるように声の調子を変える。
「突然の電話で驚かれるのも無理はないでしょうが。まあ、落ち着いてください」
「……」
「奥さん、だいじょうぶですか?」
と心配されて、A子さんは、「ええ」とか細くうなずくと、深呼吸をして受話器を握りしめた。それを待っていたように男は説明をはじめる。
「手短に言うとですね、満員電車の中で、お宅のご主人が、若い女性のお尻を触ったりとかですね、いわゆる痴漢行為をされたと女性から通報がありまして」
うちの夫が痴漢だなんて……信じられないA子さんは問い正す。
「ほ、本当なんでしょうか」
「ええ。だから今警察署で取調中なんです」
「……そ、そうですか」
半信半疑のA子さんに男が続ける。
「それで、被害者の女性も、いま別室にいてお話しているんですけど」
「あの、ち、ちょっと待ってください」
と気が動転するA子さんを男はまたなだめにかかる。
「まあまあまあ、落ち着いてください、奥さん。驚かれるのも無理はないでしょうが、聞いてください。その被害者の女性も。最初は、絶対に訴えてやる! 即刻逮捕してください! とすごい剣幕だったんです」
「そ、そんな……」
「でも、ちょっとお話ししているうちにね、今は少し落ち着きまして、まあ、示談に応じてもいいと、そういう話になっているんですよ。本来なら、即逮捕して留置場に入れるところなんですがね」
逮捕、留置所、という言葉にすっかりうろたえてしまったA子さんは尋ねた。
「とりあえず、夫と話させてください」
「駄目です。現在取り調べ中なので無理です」
と男はきっぱり断った。
すかさず登場する弁護士は落ち着いた丁寧な口調で……
「ただですね、被害者の女性が、示談でもいいっていう話を切り出してくれたんで、当番弁護士さんに電話して、いま弁護士の先生に来てもらったところなんですよ。それで、弁護士の先生と、直接詳しいお話をなさったほうがいいだろうと思いまして、奥さんにお電話したんです。じゃあ、今弁護士の先生と替わりますね」
弁護士と言われて、やっと事態を納得したA子さんは、「お願いします」と答えた。
「あ、もしもし。お電話替わりました。渡辺さんの奥さまでいらっしゃいますか?」
落ち着いて丁寧な弁護士の口調に、A子さんはすがるような思いだった。
「はい、そうです」
「私、F弁護士事務所の武田と申します。今日は当番弁護士ということで、警察から要請があったので、急いで駆けつけた次第です」
A子さんがすまなそうに謝る。
「恐れ入ります。申し訳ございません」
「いえいえ。こういう場合に、当番弁護士が呼ばれるのは普通ですから。恐縮なさらないでください」
「わかりました」
A子さんはようやく少し落ち着きを取り戻した。弁護士を名乗る男は少し間を置いてから、事件の話に入った。
「刑事さんから簡単な事情はお聞きになったと思いますが、ご主人が、実はかなりひどい痴漢をしてしまいましてね」
「……はい」
「示談の話もお聞きになりましたか?」
「え? あ、はい、さきほど警察の方から……」
A子さんは弁護士と話して落ち着きを取り戻す
示談というのがどういう意味なのか、とっさの話で混乱するA子さんに弁護士が説明する。
「被害者の方も、今はだいぶ落ち着いていまして、私が話したところ、ご主人のほうも、刑事事件や裁判になって面倒なことが長く続くよりも、この場で示談に応じたほうがいい、ということになったわけなんです」
A子さんは親身に話しかけてくる弁護士に「ありがとうございます」と言った。
「いえいえ。恐縮しないでください。それでですね、示談にするには、当然のように、示談金というのが必要になってくるわけですが。被害者の女性のほうからは、最初400万円という提示がありました」
400万円という金額に、A子さんは驚いて聞き返す。
「よ、400万……ですか?」
なだめるように弁護士がすぐ割って入る。
「いやいや、奥さん。落ち着いて、ちょっと私の話を聞いてください。400万というのはあくまで、被害者の女性が最初に提示した額で、私の経験上、今回のような場合、だいたい300万ぐらいが相場だと思うんです」
「そうなんですか」
と相槌をうったA子さんだが、あまりの金額に確かめずにはいられなかった。
「本当に、そんなにかかるものなんでしょうか?」
「ええ。痴漢の場合、被害者の女性が納得しなければ、何もおさまらないわけですから。それに、お子さんもいらっしゃるんでしょう?」
「……ええ」
「最近おうちも買われたばかりだとか……そのへんの事情も警察から聞きまして、お気の毒だと思い、相場は300万円ぐらいですがという説明をした上で、なるべく少額で示談できないかと、今被害者の女性を説得しているところなんです」
そこまで尽力してくれる弁護士に、すべてまかせる気持ちで「ありがとうございます」とA子さんは頭を下げた。
「まあ、今回は初犯ということなので、示談が済めば警察もすぐ釈放するでしょうし、なので、とりあえず、200万円ほど用意していただけますか? そうすれば、示談金200万円ということで、被害者の方にも納得してもらいますので」
「ええ。でも、あのですね、ただ、今すぐといわれましても、そんな大金を用意するというのは……」
と、しどろもどろのA子さんに弁護士は詰め寄る。
「奥さん、旦那さんの置かれている状況をよく考えてみてください」
「はい」
「ご主人は痴漢をして取り調べ中なんですよ」
「ええ」
「女性が示談に応じなければ、そのまま逮捕されます。逮捕されれば、当然会社もクビになり、新聞にも出ます。余罪を追求されて裁判になれば刑務所に行くかもしれないんです。いいんですか?」
「そ、それは……」
「警察からも、忙しいので、示談か逮捕か早く決めてくれと言うのを、ちょっと待っていただいているんです」
「はい……」
「私としては別に、逮捕されてから示談に持ち込んでもいいんですが、ご主人のお仕事やご家庭の事情などを考えると、ここはすみやかに処理したほうがいいと思うのですが」
「あの、わかりました。ええ。何とかしてみますので」
「それでは、すぐに、できるだけ早くお願いします」
「わかりました。今から銀行へ向かいます」
「その前にひとつだけ……お金をおろしたり、振り込む時に、金額が大きいので、銀行の窓口の人に何か尋ねられるかもしれません」
「はい」
「ですが、これは痴漢行為という破廉恥な犯罪の、内密な示談金ですから。そのへんを考慮して、あまり余計なことは言わずに黙っていた方がいいかと思います」
「はい、わかりました。どうかよろしくお願いいたします」
電話を切った妻は、定期預金を崩すしかない、と思い、通帳と印鑑を持って銀行へ向かった。
「痴漢詐欺」は最も典型的な示談金詐欺の手口といえるでしょう。妻が一人でいるところへ、突然の警察からの電話がかかってきます。「夫が痴漢で逮捕」という事態にすっかり気が動揺している妻の前に、すかさず弁護士と名乗る男が登場します。親身で冷静な人物を装って示談の話を持ち出し、その金額に驚く妻に、「示談しないとご主人は逮捕されて会社はクビ。新聞にも載るし刑務所にも行きかねない。警察にもせかされているので早く」とたたみかけてきます。
しかし、この話の中には,明らかな間違いがいくつかあることに気づかれたでしょうか?
まず、示談金とはそもそも、すでに起きてしまった問題を、事件や裁判に持ち込まずに和解するために支払われるお金であって、逮捕や刑事事件とは逆の意味合いを持っています。ですから、「緊急を要する示談金」や「逮捕と引き換えの示談金」などというものは存在しません。また、途中で弁護士が登場しますが、当番弁護士と容疑者が接見できるのは「逮捕の後」であって、いくら被害者の親の要請とはいえ、警察が弁護士を呼んで示談交渉をさせる、などということは絶対にありません。
このふたつを念頭に置いて、最初から読み返してみましょう。
まず、電話を受けたA子さんは、警察と言われて驚きながら、本当に警察からの電話なのか、夫が痴漢で逮捕されたのかどうかを、一度も確認しようとしていません。この時点で、すでに相手のペースにはまっているのが最大のポイントです。また、非通知ではなく、03から始まる固定電話番号に安心して受話器を取っていますが、IP電話や携帯電話の場合、着信番号の偽装はそれなりの知識があれば可能で、雑誌にも公表されているほどです。(携帯電話会社各社は不可能だと反論しています)。
ここでとるべき対策は簡単です。驚いた時点で、いったん電話を切り、夫の携帯か会社、もしくはS警察署に電話をかけ直し、事実かどうか確かめればいいだけです。
2年前に買ったマイホームの話まで……
しかし、郊外のマイホームに一人でいる主婦に、警察署から電話がかかってくるなど、そう多くはないはずです。まず事実かどうか確かめろ、といっても、相手が警察なだけに緊張し、なかなか難しいのが現実でしょう。しかも夫が痴漢で逮捕と言われれば、気が動転しても当然です。ここが次のポイントで、犯人は堂々と付け込んできます。「S警察署の佐藤です」と二度も繰り返し、続けざまに具体的な犯罪の内容を告げ、逮捕、留置所、弁護士、示談金……という、大方の主婦であれば、はじめて直面するだろう言葉の連続に、うろたえるなというのも無理な話です。
そして、警察の後にすかさず弁護士と名乗る第三者が登場するところが、この事例の最大のポイントです。この時点で、A子さんはすでに警察だと名乗る男の話を信じてしまっているからです。しかし、弁護士についても警察と同じように、弁護士会に電話で問い合わせれば、「F弁護士事務所の武田」が本物かどうかすぐわかります。もし実在する弁護士の名前を使っていても、F弁護士事務所に直接問い合わせればすぐに嘘はばれます。
しかし、それをさせないのが犯人の手口なのです。警察官役の男も、弁護士役の男も、A子さんの気持ちをあやつるように、単刀直入に具体的な話を切り出しては相手を揺さぶった後で、同情を示してなだめ、気が緩んだところでまた次の話を切り出してくる、という話術を巧みに繰り返しています。
こうして夫が痴漢したという話を信じ込ませた上で、弁護士はいきなり400万円という高額な示談金を提示してきます。これも、通常の頭で冷静に考えれば、逮捕か示談金かという選択など、そもそもあり得ない話だと気づくでしょう。「現行犯で取り調べ中」というのは、すでに逮捕されているわけで、その上400万円もの金額を提示されれば、いくら警察や弁護士に不慣れな主婦でも、これは何か怪しいぞ、と警戒して疑うはずです。
ところが、それをなんとか200万で収めてあげるから……と、あたかも主婦の味方であるかのように振る舞う弁護士を前にして、A子さんはむしろ恐縮してしまい、「ありがとうございます」とまで言っています。
これこそ、まさに犯人の思うツボです。ここまで懐柔した上で、犯人はA子さんを急いで銀行へ向かわせるために、次の切り札を使います。
会話の中に、子供や2年前に買ったマイホームの話が何気なく出てきますが、実はこれも重要なポイントだと気づかれたでしょうか?
冷静に考えれば、一度も面識のない弁護士が、子供がいることなど知っているはずがありません。警察が取り調べ中だとしても、住所や仕事、家族構成ぐらいは訊くでしょうが、2年前に家を買ったことなど、痴漢とは何の関係もない話です。
そう考えると、犯人はあらかじめ、家の電話番号、夫の勤務先、家族構成、不動産、年収、といった「個人情報」を集めた上で電話をかけてきた可能性が高くなります。200万円という金額を聞いて、定期預金を崩せばなんとかなる、とA子さんがすぐ思いつくのも、犯人はそれを知っていた可能性があります。いくら脅しても払えない人に、大金を要求してもしょうがないからです。
実際、現代の振り込め詐欺の多くは、数人のグループによる組織犯罪だといわれています。調査役が入念な下調べをするか、「名簿屋」から個人情報を買った上で、シナリオを固め、最終的な落としどころの金額まで決めた上で、コンタクト役はA子さんが一人で家にいる時間を狙って電話をかける、というところまで、最近の振り込み詐欺は巧妙になっています。子供や家の件も、200万という金額も、犯行グループはA子さんの家族に関する情報を仕入れていた、と考えればすべて納得がいきます。
結局、A子さんは通帳と印鑑を持ってひとりで銀行へでかけようとしますが、最後の重要なポイントはここです。出かける前に一度冷静になって、事の次第を考え直してみれば、何かおかしいと気づくかもしれません。親類や友人などの第三者に相談してみれば、もっと確実でしょう。とにかく、「まずは自分から事実かどうか確かめること」「何事も一人では行動しないこと」が、犯人の手口に引っかからない最も有効な手段なのです。